採掘されたダイヤモンドの原石は、カットと研磨を施され美しい宝石となった後、世界中にあるダイヤモンド取引所で、各国から来たバイヤー達に買取られていきます。現在、世界中には、数多くのダイヤモンド取引所が存在します。ひとつの街に取引所がいくつかあるという場所もあり、中でもその数がダントツに多いのが、ベルギーにある都市、アントワープです。今回は、世界中からのダイヤモンド商人達が集まるダイヤモンドの街、アントワープについてお伝えして行きます。
古くから行われていたダイヤモンド取引
現在、世界中には多数のダイヤモンド取引所があります。まず、アントワープ(ベルギー)には4か所、テルアビブ(イスラエル)に2か所、ロンドン(イギリス)に2か所、ニューヨーク(アメリカ)に2か所。さらに、1か所ずつある都市は、パリ(フランス)、アムステルダム(オランダ)、イダー・オベルスタイン(ドイツ)、ヨハネスブルク(南アフリカ)、ベニスとミラノ(イタリア)、上海(中国)などです。
アントワープは小さな都市ですが、その中に4か所もの取引所があります。街では取引所を始め、ダイヤモンド専門店やアトリエ、さらにはダイヤモンド博物館といった建物までがあるという、まさにダイヤモンド一色の街なのです。
アントワープは過去5世紀以前の昔から、ダイヤモンド取引において、世界中でトップの座に君臨し続けています。戦争や経済暴落などの時代をくぐり抜け、宝飾品を市場に送り出す、大切な役目を果たしてきました。その結果、現在ではダイヤモンド取引の場に置いて、確固たる地位を築いたのです。
ベニスを経由してブルージュへ
遥か遠い昔には、ダイヤモンドが採掘されていたのはインドのみでした。中世の時代になると、裕福なインドのマハラジャなどが、イタリアのベニスを経由して、船でヨーロッパに渡ってくるようになります。こうした事から、北部イタリアでは、ダイヤモンドを含むインドからの輸入品の取り引きが盛んに行われる様になります。
1314年になると、ベルギーの都市ブルージュの港が、ベニスからの船を出迎える様になります。ベニスで取引されたダイヤモンドがベルギーに渡る様になり、ブルージュはベルギー国内で最初にダイヤモンド取引が栄えた街となりました。
この頃、ベルギーのロデウィック・ファン・ヴェルケンという人物がダイヤモンドを研磨する機会を発明し、ダイヤモンドのカッティングに革命を起こします。ヴェルケンの銅像は、今もアントワープの中心地に堂々とそびえ立っています。
ダイヤモンドビジネスの黄金時代の幕開け
北海から直結したスヘルデ川沿いに位置するアントワープは、当時ダイヤモンド取引所としての名だたる名誉を確保しました。1447年には、アントワープでのダイヤモンド取引に関する事柄が、公的証拠として記録されています。裁判所から布告されたもので、ダイヤモンドを含む宝石類の模造品が取引されるのを防ぐために、確固たる対策を講じる様にと命じられた証明書でした。
1498年に、ポルトガルの航海士がリスボンからインドへの直行ルートを発見します。リスボンからアントワープへの航路は簡単であったこともあり、ダイヤモンド取引は増々栄える様になりました。
16世紀に入ると、アントワープはヨーロッパでの貿易の中心地となり、ダイヤモンドビジネスの黄金時代が始まります。世界中の4割もの取引業者がアントワープの港を経由。ダイヤモンドの原石はベニスとリスボン経由でアントワープに届き、この街でカットされます。ベルギーでは研磨機が発明されて以来、一流職人がさらにその腕を磨き、美しくカットされたダイヤモンドを世に送り出すことに成功していました。こうしてアントワープは、世界中で最も信頼されるダイヤモンド・カッティングの街として知られる様になったのです。
ダイヤモンド産業に危機が訪れる
1582年には、世界で最初のダイヤモンド商業団体が設立されます。しかし、この頃八十年戦争が勃発し、アントワープが略奪されてしまいます。同時にプロテスタント派のダイヤモンドカッター達は、オランダのアムステルダムに亡命します。多くの熟練職人が亡命した事をきっかけに、アムステルダムではダイヤモンド産業が繁栄することになるのです。
18世紀に入る頃には、インドでは殆どダイヤモンドが発掘されなくなります。代わりに、1725年にブラジルで鉱山が見つかると、貿易の中心地であるアムステルダムはダイヤモンド取引所としての立場を高めて行きました。原石の価格が下がり、ブラジルから大量の原石が輸入される様になった結果、ダイヤモンドを加工する工場が多く作られ、工業革命が起こります。しかし、ブラジルでの採掘は長くは続きませんでした。原石の価格は上昇し、工場は廃業に追い込まれます。アントワープとアムステルダムでは多くの研磨士たちが職を失い、ヨーロッパのダイヤモンド業界は終焉を迎える、と誰もが信じていました。
ダイヤモンドラッシュと共に繁栄
1866年に南アフリカでダイヤモンドが発見されます。インド以降の豊富なダイヤモンド産地となった南アフリカでは、ダイヤモンドラッシュが始まりました。キンバリーという町では、英国人実業家がデビアス鉱山会社を設立し、ダイヤモンド取引を取り締まる事に成功します。この後ダイヤモンド産業は一気に栄え、技術の高い職人の揃うアントワープは、アムステルダムと並んで、ダイヤモンド業界ではトップクラスの街として有名になりました。
1893年には、アントワープで最初の取引所となる、アントワープ・ダイヤモンドクラブが設立されます。ダイヤモンドや宝飾業界の促進、宣伝を行う事が主な目的でした。現在の宝石街は、この場所に設立された取引所を中心に発展していったのです。
1904年、ダイヤモンドクラブの厳しい入会審査に合格しなかった取引業者達により、2番目の取引所が設立されます。1929年には、世界で唯一、ダイヤモンドの原石のみを扱う取引所が設立されました。1910年には5番目の取引所が設立されましたが、後に解散しています。
戦争で連れ去られたユダヤ人職人達
第二次世界大戦中が始まり、アントワープはドイツ軍に占領されます。原石の供給も無くなり、腕の良いユダヤ人職人や商人たちは、ナチス軍によって連れ去られてしまいました。
そんな中、ベルギーの戦火から逃れる事が出来た人々は、イギリスに逃げ込み、宝飾ビジネスを始めます。大量に持ち込まれたダイヤモンドは、イギリス政府の協力により、全て登録され保護されていました。戦争が終わると、ダイヤモンドはアントワープに無事戻ります。馴染みの土地に帰り着いた商人や職人達は、すぐにビジネスを再開し始めたのです。
世界のダイヤモンド取引の中心地となる
第二次大戦後、ダイヤモンド業界は急激に発展し、世界中でビジネスが行われる様になります。アントワープは欧州で最も重要な取引きの場所ですが、アメリカやアジア、中東にも市場は拡大し、ビジネスが盛んになってきました。世界中の取引をまとめるため、1947年に世界ダイヤモンド取引所連盟(WFDB)の本社が、アントワープに設立されます。信頼のおけるダイヤモンド取引をしていると認定された企業や取引所のみが加盟できる団体です。
まとめ
今回は、ダイヤモンドの街アントワープの歴史を、まとめてお伝えしました。この街で取引されるのは、選ばれた最高品質のダイヤモンドのみ。伝統的に伝わる技術を持つ熟練職人達によりカットと研磨が施された、世界最高品質のダイヤモンドが生れる街なのですね。