ダイヤモンドの流通には欠かせない「デビアス社」。テレビCMや雑誌の広告で、名前を目にしたことがあるのではないでしょうか。「ダイヤモンドは永遠の輝き」という有名なキャッチコピーで、ダイヤモンドの婚約指輪を世界中に広めたのが、デビアス社です。デビアス社とダイヤモンドのかかわりについて、まとめてみました。
デビアス社とは?
デビアスグループ(De Beers Group)略称デビアスは、南アフリカ共和国に本社を置くダイヤモンドの採鉱、流通、加工、卸売会社です。
本社所在地:南アフリカ共和国ヨハネスブルグ市都市圏
設立:1888年
事業内容:ダイヤモンドのマーケティングおよび促進、地域開発
会長:マーク・カティファニー
CEO:フィリップ・ミラー
売上高:$6.1million
従業員数:約2万人
主要株主:アングロ・アメリカン社(85%)
創業者:セシル・ローズ
名前の由来
デビアス社の名前の由来は、「ヨハネス・ニコラス=デ・ビア」と「ディーデリック・アーノルダス=デ・ビア」の二人のアフリカーナ人農民の農場名に由来しています。二人の兄弟は、オレンジ川とバール川の合流地点のウールツィヒトという地点でダイヤモンドを発見しました。しかし、兄弟は続いて起こるダイヤモンドラッシュに農場を維持することができず、6300フランで農場を手放すことになります。兄弟は、鉱山の所有者にはなれませんでしたが、二つのうちの一つの鉱山は、二人に由来して命名されています。
創業者は「アフリカのナポレオン」
デビアス社を創業したセシル・ローズは、イギリスの牧師の子として生まれました。ローズの病弱を心配した父は、気候の良い南アフリカにいるローズの兄の元に送ったのです。健康を取り戻したローズは、兄とともに坑夫として働きました。ダイヤモンドを掘り当てて作った資金でダイヤモンドの採掘権の投機を行ったり、採掘場での揚水ポンプの貸し出し事業で儲け、ロスチャイルドからの融資を取り付けデビアス社を設立しました。
セシル・ローズはのちに、経済力をバックに政界へも進出し、1890年には首相にまで上り詰めました。ローズは南アフリカの経済と政治の実権を一手に握り、その威風は帝王を思わせ、「アフリカのナポレオン」と呼ばれていました。
デビアス社の歴史
1888年3月13日、デビアス社はロスチャイルドの援助を受け、セシル・ローズが設立しました。ライバルであるバーニー・バルナートのキンバリー鉱山も吸収統合し、圧倒的なシェアを実現しました。1902年、デビアス社は南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くに、ダイナマイト工場を設立しました。時を同じくして、デビアス・サッカークラブも設立されました。
20世紀にはオッペンハイマー家が支配的株主となりました。1917年、ユダヤ系ドイツ人のアーネスト・オッペンハイマーは、現在も世界最大の金生産者であるアングロ・アメリカン社を設立しました。次いで、コンソリテイデット・ダイヤモンド・マインズ社を設立してダイヤモンド業界に進出。1926年にデビアス社の役員、1931年に会長に就任したのです。アーネスト・オッペンハイマー卿の息子、ハリー・オッペンハイマーおよび彼の孫のニッキー・オッペンハイマーがそれぞれ会長に就きました。2011年にオッペンハイマー家が保有するデビアス株の40%を51ドルでアングロ・アメリカン社に売却し、1世紀にも及ぶ一族支配は終焉を迎えました。
19世紀後半、南アフリカは「鉱物革命」と呼ばれる産業革命を経験し、金やダイヤモンド鉱山で働く人の需要が高まりました。キンバリーでは、労働力の大部分が季節労働者によって担われました。アパルトヘイト時代には、囚人を労働者として雇うことを認められ、デビアス社では19世紀末までに1万人以上の刑務所労働者が坑夫として働いていました。
デビアス社の機構
アーネスト・オッペンハイマーは、ダイヤモンド業界を支配する独創的で綿密に練られた機構を作り上げました。それは「世界中のダイヤモンドはデビアス社が一手に管理する」というものです。まずDPA(Diamond producers association)と呼ばれる生産者連合を作り、生産量の調整をします。次に、生産物を一括して買占め、分類作業をするDTC(Diamond trading company)という会社を作りました。さらにそれらを一手に販売するCSO(Central selling Organisation)という中央販売機構を作り、ダイヤモンドの価格、価値などのすべてを管理するシステムを作り上げたのです。このような、ダイヤモンドの市場価格を安定させるためのシステムを「サイト」と呼びます。
現在、サイトはDTC(Diamond trading company)と名称を変え、原石の販売を行っています。ダイヤモンドの原石を手にすることができるのは、デビアス社から選ばれた「サイトホルダー」と呼ばれる人のみとなっていて、日本では唯一、株式会社TASAKIがサイトホルダーとなっています。
イスラエルとデビアス社の対立
長い間、ダイヤモンド産業を担ってきたのがユダヤ系民族です。自国を持たなかったユダヤ系民族は、第2次世界大戦後にイスラエルを建国しました。イスラエルはダイヤモンド産業とともに急速に発展していき、世界でもトップレベルとなります。ダイヤモンド産業がイスラエルの経済的基盤となった背景には、ユダヤ人の資本とデビアス社が貢献してきたことにありました。
こうしてイスラエルのダイヤモンド産業が発展していく一方、イスラエルの国家の利益と、デビアス社のカルテル(企業の独占形態の一つ)との間でトラブルが起こるようになります。イスラエルのダイヤモンド産業は、インドの資本をも手に入れ、デビアス社を通さずダイヤモンドを流通させるルートを確立させ、デビアス社と対立が始まりました。
1978年にデビアス社は、イスラエルに対し原石割当量の削減を求めますが、イスラエルはそれに応じず、ダイヤモンドの原石の供給過剰が生じ、価格が大暴落してしまったのです。その後イスラエルは更に輸出量を伸ばしていきますが、デビアス社の国際金融と手を組んでの圧力により、衰退していきました。再びデビアス社の支配下に置かれましたが、現在はそれぞれのマーケットが確立しており、イスラエルのダイヤモンド産業も落ち着きを見せています。
カルテルの崩壊
1994年、アメリカの検察は「デビアス社とゼネラルエレクトリック社が不当に工業用ダイヤモンドの価格を高くしている」と告発しました。独占禁止法に違反しているとされ、当時デビアス社はアメリカでの販売ができなくなってしまったのです。その後和解しましたが、和解金は2億5千万ドルとも言われています。アメリカに敵視された「カルテル」ですが、「デビアス社がダイヤモンド市場を独占し、流通量を制限してきたことによって、ダイヤモンドの価値が守られ続けてきた」とも言えるのです。
デビアス社のマーケティング
日本でも「ダイヤモンドは永遠の輝き」というキャッチコピーが、CMで大々的に流れていましたので、記憶にある方もいらっしゃるでしょう。デビアス社は「ダイヤモンドは永遠の愛の象徴」として、婚約指輪の理想であると宣伝しました。大成功を成し遂げたこのキャンペーンは、次のような活動がされました。
・ロマンス映画の中で、ダイヤモンドを結婚祝いとして贈る
・有名人を使って雑誌や新聞で、ダイヤモンドを使ったロマンチックなストーリーを掲載した
・ダイヤモンドを広めるために、英国王室に献上した
これらのキャンペーンは、デビアス社のPRを担当したPR機関N.W.アレイ親子商会によって立案されました。スローガンの「A Diamond is forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」は、マーケティングの歴史上で最も成功したスローガンです。この宣伝は、「人々にブランド名を植え付けることなく、ただダイヤモンドに理想的な永遠の価値を表現する」という点で、後年長く模倣されるイメージ広告の形となりました。
「婚約指輪は給料の3倍」「スイートテンダイヤモンド」なども、デビアス社が打ち出した広告戦略です。
デビアス社の今
バブル期の日本でのデビアス社の売り上げは4000億円にも上るものでしたが、現在は1000億円まで売り上げがダウンしています。近年のデビアス社のターゲットは中国やアジアに向けられ、販売部門に力を入れています。ダイヤモンドは4C(カラー、クラリティ、カット、カラット)と呼ばれる階級付けをしていますが、デビアス社はそれに加え、「Fire(光の屈折から生まれる美しい虹色)、Life(きらめき)、Brilliance(自然な輝き)」といった更なる美しさの定義を提唱し始めました。デビアス社の「ダイヤモンドを美しく輝かせること」をテーマとしている点は、今も昔も変わらず貫いています。